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2016年の年の瀬に

今年は障害者雇用ながら、転職した事が一番大きな変化 だった。残念ながら体調を落とし、休職して復帰したばかり なので、安泰というわけでは無い。 来年は主に仕事面では、徐々に勤務時間をフルタイムへ戻して 行く事と精神的な安定を保つ事。 それが目標になるだろう。 来年の今頃、「ここは良くなった」と思える事が一つでもあると 更に次の年に繋がるはずだ。 振り返ってみると以前のアルバイトに就いた 数年前に匹敵する、大きな変動が あった年になった。 今年の転職が必ずしも成功だったと いうことはまだ言えないが それでも治療に専念して、もやもやした 焦燥感のようなものを感じていた時期より 一応「働けている」というのは、年を経るごとに 社会で何らかの役をこなしている実感を 得ているように思う どちらにしろ、両親も高齢であるので 出来る限りの経済的な自立は、求められている。 口に出さずとも、そういう不安をもっていることは伝わる。 無理はダメだが、やはり症状が安定しているなら 何らかの形で収入を得る状態は維持したい。そう思う。

精神障害についてどう説明していいのか

これは恐らく、私自身もはっきりとは決められない。 「そんな他人事でも無いのに」とも言われて当然だが 難しい。 精神障害にもいろいろな精神病、症候群、最近では発達障害 で全く傾向が変わってくるし、症状の現れ方や寛解までの経過 も加わって個人差が大きくなっている。実はこの「分かりにくさ」 も精神障害者が雇われる時の壁にもなっている。 企業がこの人はどういう所が苦手で、どこが得意か? そしてどこの部署で、どんな仕事をして貰うか? すぐには分からない事だ。 という事で、「トライアル雇用」を利用して決めることに。 今回は3ヶ月を目途に本採用にするというものだった。 この制度は利用者も企業側もお互い良く知るために3ヶ月(6か月まで?) 使うというもの。利用者側で「向いていない」と思えば そこで労働契約が切れる。一応契約満了ということになるので 経歴上の傷は少ない。 私の県の場合、殆どは利用者の側が申し出て辞める事は あっても企業の方から断る事は起きていないらしい。 ただ私が不調というか、追い詰められたというか 追い詰めて症状が、再び悪化を始めたのはそれ以後だったのだ。 結局6か月を手前に限界が来てしまった。 根底には、やはり自分の特性や弱い部分を、うまく説明できて いなかったという面がある。上手く説明して、相談を腹を割って 出来ていればもう少し何とかなったはずである。 とはいえ今もまだ辞めてはいない。 一旦業務時間を減らしてはいるが、続けている。 こういった、柔軟性を適用してもらえるのは、やはり障害者雇用 なのかもしれない。 今は段々勤務時間や内容を戻していくのが、やるべき事だ。 ゆっくりやるしかない。

障害者雇用で雇われる事

私の抱える精神障害と、これまでの治療経過を考えると どうしても一般の枠組みでは就労は厳しいと考え、ハローワーク 障害者就労支援センターの助けも借りて今年半ばから 「雇っても良い」という企業へ就労という形になった。 正直な所、障害者雇用自体はそれほど数が無く 業種、職種共に、一般の求人程幅が無いのが実情と言える。 大都市ならまだしも、地方の田舎だったりすると一年中 ほとんど変わりのない求人数しかなかったりする。 全国的に見ると、障害者雇用は進んでおり、精神障害者の 雇用が「増えている!」らしいがその実感は無い。 私の場合も珍しく「特に障害は関係なく」「近くに住んでいる」 人材にヒットしたと言っていい。 地域の障害者支援センターに登録して、アルバイトを継続している というのも評価はされたようである。 企業としても、今も何らかの形で働いている」 というのは好印象だという。 意外な程、あっさり決まったものの精神障害者ははじめてである というのが、少し気になっていた。 実際、障害が見えにくいというのもあって、3障害では 就労については遅れがちで、そういう実験的に採用している企業も多い。 なかなかこれが難しいというのは、徐々に 分かってくる事になる。

簡単なアルバイトを続ける事

地区の就労支援センターを介して、アルバイトをしたのは 清掃会社である。障害者雇用としても比較的良くある業種だと思う。 ただ珍しい事に、勤務する場所の都合もあり 作業ごとに手分けして仕事を行うようになっている。 利点として ・一人当たりの作業が簡潔で分かりやすい。 ・ミスの所在が分散する。 欠点とした ・協力的でないと、効率は逆に悪くなる。 ・ミスに甘い人が増える可能性。 精神障害者以外の人も存在する会社だったので 恐らく試行錯誤しながら、やっている のだと思う。障害も本当に色々あるものだと感じた。 個人的には、「一人当たりの仕事が分かりやすい」 「責任が集中しない」のは良かった。 結局この仕事は3年以上続けるのだが 「簡潔」 「繰返し」 というのが私にはあっていたのだと思う。 協力して行うけれど、そこまで 親密に話す必要はない、同じ作業を繰返す それは対人面で不安のある自分には 気分の面でも楽になるし、慣れるのにも時間は 必要無く、いつの間にかそこで働くのが当たり前に なっていた。 体を動かして体重も減って、高くは無いが自分で 働いた証の報酬も入る。 しかし、一番は気楽に相談できる人が居て 簡単に解決は出来ても、不安や不満を吐き出せる これは精神を病む人間にとって 必須なのでは?とも思う。 最初の教育から、ずっと相談に付き合ってもらえた 事には感謝している。 高齢だったので、今もおられるか分からないが…

初めの一歩

アルバイトとはいえ、今までまともに働いた経験は無いわけで 体力、コミュニケーションは、付け焼刃ではどうしようも無いのを痛感した。 始める前に毎日一時間ウォーキングを、半年は続けていたが それでも初めは、帰ると倒れこむように眠っていた。 トレーニングや対話練習が意味がない訳ではない。 それがあったとしても、実際の現場では緊張もしているし、同僚と 会話するのも負担になる、という事。 出来る限りシフト制のバイトを選び、最初は週3日あたりで徐々に 5日へと増やすのが、良いと思う。それを許す企業も少ないかも しれないが、体力に自信が持てるまで半年はかかった。 仕事経験が少ない、未経験の仕事、治療のため薬も飲んでいる それを踏まえて、焦りがあってもゆっくりやるのが一番。 現実として、メンタルを病んだ人はどうしても体調に波がある。 休むことは無くても仕事のパフォーマンスが落ちる事は良くあることで 体調が悪いのを我慢すれば、最悪再入院もある。それでは また寛解状態へ戻すために時間がかかってしまうし、一旦築いた 職場での信頼を失う事にも繋がる。 私の幸運だった所は、両親が協力的で、同居しており 職場も障害者の特性を理解は出来なくても、容認して シフト構成したり、仕事の割振りをするという、余計な ストレスを感じないで、仕事を覚える事・なれる事に専念できた事 だと思う。 始めて一年間以上勤めたのもこのおかげと思う。 社会人になって初めて達成感を覚えた瞬間だった。

一つの転機

精神科に通院を初めて、すぐに社会復帰が出来たわけではない。 悪化して再入院していたり、就労に至るまで時間がかかった。 安定し始めて、毎日1時間歩くようになり実際に働くまで 4年程かかっている。20代後半はあっという間に過ぎた。 漸く、本格的に就労を考えて、ハローワークや病院のケースワーカー に教えてもらい障害者就労支援センターに登録したのは もう30手前だった。 障害者手帳はまだ取得していなかったものの、恐らく 一般の求人に応募しても、ついていけないという現在の主治医の 意見もあり、障害者就労支援センターの実習を受け入れている 企業のアルバイトを、取り合えずやってみる事にした。 これは障害者雇用の求人がとても少ない事が影響している。 首都圏やそれに次ぐ規模の大都市ならまだしも 地方の田舎となると、とても数が少ないのである。 それに加え、私の経歴が殆ど真っ白な事も問題だった。 希望は関係なく、どこかで働いた経歴を作る必要があり そのアルバイトが空いている、それならやってみようという事だ。 割と投げやりな気持ち、心構えも無く始めたアルバイトだが 間違いなく私に変化をもたらした、一つの転機になった。

受け入れ難い病名

飲む薬とその量から、ある程度分かっては居たのだが 精神科の医師は「統合失調症」との診断を下していた。 精神科に入院した頃から、所謂精神病である事は 薄々分かっていたが、改めて現実に突き付けられると すんなり受け入れられる訳ではなかった。 それは、「統合失調症」というのが、報道その他メディア ネットでも殆どの場合、悪と見做されていることもある。 私個人は他人に危害を加える意識はないし、した事は無い。 が、恐らくそういった目で見られるという不安が湧いた。 何より、それを聞いた両親がどのような衝撃をうけたか 今でも分からないし、聞いたとしても正直な答えが返って 来るのだろうか?分からない。 しかしながら、これ以降両親の対応は変わった。 叱咤激励して、強制的に就業を奨める事はなく 私の方から「~をやってみようと思う」などと、積極性を示すように なるまで、何も強制はしなくなった。 恐らく、私に対する期待をかなりの部分諦める事に なったと思うし、将来の不安も私とは違うベクトルで 持ったはずである。 この変化には、本当に助かっているし、私の社会復帰に 良い方向で影響を与えたと、今も思っている。 デイケア通いから、アルバイトを始めるまで至ったのは 家族の理解は不可欠だった。 受け入れがたい病気ではあるけれど、そのおかげで 家族内の絆というか、大切さを改めて思い知らされる切欠だった。 その当時は驚くだけだったが、いまではそう感じている。